田村有樹子の経歴が凄い!イジめられ不登校からの復活・下剋上人生とは!

キングコングの西野亮廣さんの敏腕マネージャーとして活躍中の田村有樹子さん。

『田村P』『田村さん』と、たびたび西野さんの発信にも登場する女性ですが、裏方としてだけではなく自身もオンラインサロンを運営する“プレイヤー”でもあります。

1月18日に放送された深イイ話で密着取材を受け、注目された田村有樹子さんですが、過去の経歴を見てみると波乱万丈なものでした。

今回は、キンコン西野さんのマネージャー・田村有樹子さんの経歴についてまとめていきます!

田村有樹子の経歴① イジメ不登校からの復活人生

キンコン西野さんのマネージャー・田村Pの人生は波乱なものでした。

小学校のころ、クラスの人気者だった田村Pはあるきっかけでイジメられるようになりました。

イジメられ不登校に

小学校時代の田村有樹子
小学校時代の田村有樹子
引用:櫛野展正(くしの・のぶまさ) note

田村Pがイジメられるようになったのは小学校5年生の時。

それまでは明るい性格で人気者でしたが、中学受験の模試でクラスのリーダー格の女の子よりいい点数を取ったことがきっかけでした。

クラスメイトは自分が標的になりたくないからと見て見ぬふり。

先生や親に相談したかったが、「チクったら家を放火する」と脅され、どうすることも出来なかったそうです。

ストレスからご飯が食べられなくなり、チック症のような症状も出始めました。

幼少期の田村有樹子
引用:櫛野展正(くしの・のぶまさ) note

ある日、塾の友達が田村Pの父にイジメを報告したことからご両親にイジメが発覚。

「娘は明日から学校に行かせません」とすぐに連絡を入れて、いじめっ子から隔離するようにしました。

幼いころから負けず嫌いだった田村Pは、不登校になっても朝から塾で勉強し、奈良市内の私立中学に進学しました。

本来はもっと偏差値の高い中学校を狙えたはずですが、小学校時代の知り合いがいない中学校を選んだそうです。

田村有樹子
出典:Salon.jp

小学校時代に受けたイジメ・不登校のことを周りは誰も知りませんが、トラウマから人とうまく接することができなくなってしまいました。

「イジメは無くなったんですけど、小学校のとき、人気者から一人ぼっちになったので、もう人間不信ですよね。また嫌われないために、誰に対しても八方美人でいるようにしました。結果的に友だちは増えたんだけど、自分を演じてるから全然楽しくなかったんです」

引用:櫛野展正(くしの・のぶまさ) note

そんな“暗黒時代”ともいえる幼少期を過ごした田村Pですが、転機が訪れたのは高校時代でした。

努力でテニス県5位に

田村Pは高校時代、硬式テニスに打ち込みました。

中学までテニス経験はゼロでしたが、「県で上位に入る」と“決めて”猛練習します。

部活では同級生の中でも一番下手だったそうですが、部活後(19:00~23:00)も毎日テニススクールに通い詰めて人一倍努力したそうです。

田村有樹子

悔しさだけではなく、テニスのコーチが超絶タイプだったことも努力するモチベーションとなっていたそうです(笑)

「テニスさえあればいい」と思ってテニスだけ打ち込み、そのせいで学力は下から3番目くらいの成績に…。

だけど最初は部内で一番下手だったのに、あっという間に上手になり最後は学校のエースになりました。

監督からも「最後は任せたぞ」と頼られる存在となり、他校から声を「○○中の田村さんですよね!」と声を掛けられることもあったそうです。

「県で上位に入る」と決めて猛練習した田村Pは、最終的にシングルで奈良県3位の成績を収めることができました。

浪人して同志社大学へ

田村有樹子
出典:田村有樹子Twitter

テニス部を引退後、待ち受けていたのは大学受験

テニスに打ち込んでいたせいで、田村Pの学力は、学年で下から数えられるくらい低いものでした。

その時の偏差値は36

普通であれば、大学進学すら厳しいような学力ですが田村Pは名門・同志社大学を目指しました。

同志社大学
同志社大学
出典:類グループ

同志社大学の文系学部の偏差値は、だいたい70くらい。(学部・学科によるが65~73くらい)

さすがに無謀な挑戦ですが、田村Pは…

「同志社以外ありえない。なんなら早稲田も狙ってみる?」くらいに思っていたそうです。

テニスに注ぎ込んだ熱量を、そのまま受験勉強に注ぎ込んで頑張るも…結果は惨敗でした。

親に頼み込んで浪人生活に突入。

浪人生活では、塾から近い祖父母の家に居候させてもらい、大学生活を満喫する友達からの連絡を絶つために携帯電話をへし折ったのだとか。笑

キングコング西野のマネージャー
出典:ちょろの癒し部屋

塾では、同じコースの人はライバルなので目も合わせず、受験しない学部を狙っている人とだけ仲良くなったそうで、1日15時間以上勉強しました。

そして、1浪の末、同志社大学の3学部に合格することができました。

しかし、同志社大学でもテニスにすべてを注ぎ込んだ田村Pは、授業をサボりまくっていたそうです。

「寝てても単位が取れる授業しか選んでなくて、友だちに『代返』を頼みまくってました。卒論が要らないゼミを選んでたから、卒論も書いていないんです」と話す。

引用:櫛野展正(くしの・のぶまさ) note

シルクハット
出典:シルクハット

田村Pはとことん“一点集中型”で、それ以外はかなりおろそかにしてしまうようですね…。

ただ、その一点に注ぎ込む熱量は尋常ではなく、その努力に人が集まってくるのが田村Pの凄いところです。

テレビ局で営業職&ADに

大学時代の就活では商社、メーカーなどいくつか内定をもらていましたが、どれも「これじゃないな…」という違和感を抱えていました。

そこで「一番大変な仕事ってなんだ?」と考えた末、テレビ番組の制作会社に就職しました。

「就職を考えた時に仕事ができる女になりたいと思った。仕事は何でも良かった。メーカーとか色々、内定は頂いたんだけど、なんか違う気がする…あ、一番しんどい仕事ってなんだ?って時にADだ!って ADやろう!と 」

引用:その名、田村有樹子

幼少期から食事中のテレビは禁止で、バラエティ番組を見ることすら禁じられていたため、テレビというものに一切興味がなかったそうです。

最初は営業職に就いた田村Pは、他の社員が3本の契約を目標にしているところを5本に目標設定し、“身体を売ってでも”という覚悟で仕事しました。

その時のストイックなマインドがえげつなすぎます…↓↓↓

「マジで気合いと根性さえあれば80点ぐらいはなんとかなるんじゃないかな、っての思ってる。例えば契約の話。営業マンとして契約を5本とれたらいいなってやつは 多分5本とれない、多分とれて3本。 絶対に5本行くって もう思い続けて、言い続ける人は多分 下手したら5本じゃ収まらない 7本いける」

「どこまで自分を追い込めて、いかに自分を洗脳できるか、っていうのがすごく大事だなって思っていて。絶対に5本行くって思ってたら、寝ても覚めても行動がそうなると思うんです。逆算もするでしょう。私は何が何でもっていう気持ちの積み重ねしかしてない気がする」

引用:その名、田村有樹子

その後、2004年4月からゴールデンタイムで放送がスタートした『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物伝』のADに就任し、週150時間以上も働いたそうです…。

過労死レベルで、今では労基法で一発アウトな労働時間です。

田村有樹子
出典:田村有樹子note

当時も労基法の圧力があり、仕事時間を減らすような働きかけがあったそうですが、田村Pは…

「労基法ってなんなん?働きたいのに『働くな』って言われるなら辞めたるわ!」

と言ってテレビ番組制作会社を退職。

仲間を何人か引き連れて、自身で映像関係の制作会社を立ち上げました。

映像制作会社を立ち上げる

田村有樹子
出典:田村有樹子Twitter

テレビ番組制作会社を退職し、自身で映像関係の制作会社を設立したのは24歳のときです。

『代表取締役兼プロデューサー』を名乗って数々のテレビ番組を制作していく中で、キングコング・西野亮廣さんと出会いました。

西野さんと出会ったのは2014年(当時34歳)。読売テレビの番組『ガリゲル』のプロデューサーを担当した時でした。

映像関係の制作会社で10年以上働き続けましたが、自身の“生き方”に葛藤し、36歳になる直前で退職しました。

「仕事は順調だったんですけど、私は社員の給料や体調を気にしすぎる面があって、人のことばかり考えて生きていかなあかんのは嫌やと思って、30代前半で会社を辞めたくなったんです」

引用:櫛野展正(くしの・のぶまさ) note

そして、2016年(当時36歳)に自身で立ち上げた映像関係の制作会社を辞め、六本木のバーのママに転身しました。

六本木でバーのママ

2016年~2018年7月までのおよそ2年間、田村Pは六本木のバーでママをしていました。

ママをしようと思った理由は、「周りに勧められたから」だそうです。

田村有樹子
出典:シルクハット

24歳で立ち上げた映像関係の制作会社を辞めたものの、この先どうやって生きていこう?状態だった田村P。

お酒は好きじゃなかったし(むしろ嫌い)、バーのママになりたかったわけでもないそうです。

しかし、周りから「ママに向いてる」と死ぬほど言われ続け、「生きててこんなに向いてるって言われることあるっけ?」と思ってとりあえず始めました。

田村有樹子
引用:櫛野展正(くしの・のぶまさ) note

「コケたら辞めればいいし、とりあえず一回やってみよっと」気軽な感じで始めましたが、負けず嫌いで、“中途半端”が嫌いな田村Pはもちろん全力投球します。

失敗をしたわけではありませんが、結果的にバーのママは2年ほどで辞めることに。

ただ、新たなことに挑戦し全力を注いだ2年間は「無駄ではなかった」「今後何かしらに活きていく」とポジティブに捉えているようです。

田村有樹子の経歴② キンコン西野のマネージャー

キンコン西野との出会い

田村Pとキングコング西野亮廣さんが初めて一緒に仕事をしたのは2014年。

田村Pが映像関係の制作会社で働いている時で、番組のプロデューサーとMCという関係でした。

そこからプライベートでも仲良くなり、西野さんの活動に田村Pが関わることが増えていったそうです。

そんなある日、西野さんから「スタッフになってほしい」と頼まれましたが、西野さんの“仕事レベルの高さ”を知っていた田村Pは、自分では役に立てないと泣きながら断りました。

しかし、徐々に関係が深まり、いつしか西野さんが最も信頼を寄せる“右腕的な存在”となり、今ではおよそ3000人の会員数を誇るオンラインサロン『タムココサロン』を自身でも運営しています。

リベンジ成人式

リベンジ成人式
出典:Twitter

田村Pの活動実績として代表的なものとして『リベンジ成人式』が上げられます。

2018年1月に破産したことで多くの新成人が涙を流した“はれのひ事件”は記憶に新しいかと思われます。

その時にいち早く立ち上がり、涙する新成人たちのために『リベンジ成人式』を企画・実施したのが田村Pです。

とてつもない多忙の中、睡眠時間2時間くらいで走り切った田村P。

リベンジ成人式の様子
リベンジ成人式
出典:田村有樹子Twitter

この時すでに六本木でバーのママをしていましたが、『リベンジ成人式』をやっている間はママの仕事ができず収益が激減してしまったそうです。

ところが『リベンジ成人式』を大成功に収めた後は、多くのお客さんが来店したおかげで、過去最高の収益を上げることができました。

キンコン西野の活動をサポート

現在、キンコン西野さんはエンタメやビジネスに関わる活動で大忙しです。

  • 映画『えんとつ町のプペル』
  • 絵本『えんとつ町のプペル』の新作の制作
  • プペルの町づくり(兵庫県川西市)
  • 年1回の『天才万博』の開催
  • オンラインサロンの運営
  • ビジネスコンサル
  • 会社経営
  • 講演
  • 劇場での漫才
  • YouTubeチャンネル『毎週キングコング』の収録

などなど…ほかにも細かいのを含めると数えきれないほどの仕事をこなしています。

西野さんには他にマネージャーがいますが、右腕的な存在としてサポートしてるのが田村Pです。

【西野亮廣×田村P】対談動画

主に自身の『タムココサロン』の運営と、西野さんの『えんとつ町のプペル』関係のサポートが活動の大半を占めているようです。

しかし、西野さんから投げられる膨大な仕事量や、“無茶ぶり”のような難易度の仕事に四苦八苦しているそうです。

キングコング西野のマネージャー
出典:田村有樹子Twitter

万願寺での個展やフランス・パリでの個展も、西野さんから「よろしく」と丸投げされされたり、予算3億円しかないのに蓋を開けたら15億円以上かかるという状況になったり…

これらの無理難題に「え、どうすんのこれ?」というところから毎回始めているとのことです。

普通の人では到底務まらない、キンコン西野さんの“右腕的存在”として活躍する田村有樹子さん。

今後も多くの人に注目され続けていくでしょう!

トップ画像の出典:日経ARIA